「一人でも観客がいるなら、我々はそれに答えなければならない。」


某演劇系広告企業からこのようなメールがきた。

“また、公演の中止を英断された舞台関係者の皆様、公演の決行を英断された舞台関係者の皆様、いずれのも判断も、苦渋の決断だったとお察しします。”

なんのための決行か、中止か。
地震発生から一週間以上経過した今、中止にしているのはほとんどが若手〜中堅の劇団だ。ベテランの劇団達は皆決行している。論理は至って単純だ。
「一人でも観客がいるなら、我々はそれに答えなければならない。」

情勢への配慮は嘘
もし、被災地の心情を配慮して中止したなどという団体がいたら、まず間違いなくそれは嘘だ。実際の理由はこんなところだろう。1.もともとうまく行っていない公演。2.団体内に被災者が出た。3.集客の目処が立たず、公演を打たない方が何かしらの理由で支出を抑えられる。

1は論外。
2は非常に憂慮すべき状態だが、インフルエンザ、家族の死、交通事故、我々は身内にそういったものが起きうることを考慮した上で公演を計画し、幾度もそういった危機を乗り越えてきたはずだ。
正常な管理能力を持つ団体なら3を選ぶこともあるかもしれない。確かに賢い選択かもしれないが、消極的過ぎはしないだろうか。

エネルギーへの配慮
上記の他に、節電の問題で公演を中止するところもある。
舞台は大量消費の元に成り立っていて、それは平時でもその通りだ。電力以外にも材木、塗料、発泡スチロールなどを一瞬の間に消費し、公演が終わればそれらは産業廃棄物となる。我々はその消費が、ある、別の方法では絶対に生まれないものを生産すると信じていたのではないのか?
もちろん、被災地へエネルギーをまわすことは必要だ。ではエネルギーを使わずに公演する方法はないのか?懐中電灯や炎、生楽器。いくらでも選択肢はある。エネルギーなど、公演を中止するほどの理由には成りえない。それに気付けないのは経験と演出家の実力不足ではないか。

3月19日「雨降るFes.」
3月19日にUM主催のイベントに廻天百眼は出演した。前半、観客席の空気はいつもと違うものがあり「災害の中でのイベント」という雰囲気だった。だが、進行とともに緊張は解け、後半はいつも通りのような、正確には何かを乗り越えた上での新しい空気、そんなものができあがっていた。それはUMのマイクさんがMCで言っていたとおり、「日常を取り戻すためのイベント」として成功していたということ。
出演する側としても、大きな経験となった。このタイミングで舞台に上がることができたということを糧としたい。
また、この混乱の中、24もの団体をまとめあげ決行した藤宮さんに感謝と称賛を送る。

我々は今こそ絶対に引いてはならない。
少しでも影響力のある人間は、ネガティブな面を見せてはいけない。
これは舞台に立つものの大原則だ。この論理は今こそ本当の意味で作用する。
劇団、バンド、文化を構成する全ての者たちは道化と詩人の出身だ。道化が笑いをとらずに誰が笑いをとる。憂鬱に沈むのも逃げ出すのも笑いをとりながらやれ。詩人ならば最高にかっこよく。
感情面だけではなく、実際の3月19日のイベントを経験して本当にそう思った。今、必要なのは人の集まる、ポジティブな場所であり、それは我々が今まで作ってきた場所だ。

「一人でも観客がいるなら、我々はそれに答えなければならない。」

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